「石川さん!隊長ってば…、待って下さい!」
「煩い!!どこでも後ろをついてきやがって、鬱陶しいんだ!!」
いや、それが仕事だから…とは、岩瀬は過去何度も繰り返したフレーズで反撃を試みるが、石川の機嫌はすこぶる悪かった。
待つどころか、彼の歩みは更に速さを増したようだ。フルスピードで後ろもふり返らず、前をただ行くばかりだ。
岩瀬はついため息を漏らし、そしてその後ろ姿を見失わないように、必死で追った。
石川のブリザードが岩瀬に向かって吹くようになったのは、思い返せば今日の昼過ぎからではないか。
恋は盲目状態の岩瀬にも、少しは心当たりがあった。
「悠さん!」
どうも、仕事中につい口を滑り出たその一言が、いたく彼の気に触ったらしい。
それは、石川から、オフィシャル空間での使用を固く止められている呼び名。
だが、休憩中に恋人が笑顔で話掛ければ、舞い上がりついつい気もそぞろとなり、禁句が飛び出すことも、岩瀬ならままあることだ。
しまった!とは思ったのである。
だが、食堂前の混雑の中、かえってそういう場では、大抵誰も何も聞いてはいない。
場の雰囲気とざわめきに紛れて、全ての耳元をスルーしているだろうことは確信できた。
実際、あのときに振り返って睨んできたのは西脇だけで、後は皆、自分の食事を確保することが目下の関心事という状態だったのだから。
だから、何気ない態度を通そうとしたのに、石川が臍を曲げてしまったもんだから、岩瀬は困り果てていた。
「石川さん、午後の巡回はどうします?」
「…適当。」
「あのぉ。委員会への連絡書について、いつ打ち合わせしましょう?」
「…手が空いたとき。」
食事の合間に話しかけても、全くとりつく島もない有様で、岩瀬などはそんなに怒らなくてもいいのに…と思ってしまったりもするのだ。
対して、話しかけられても無視を決め込んでいる石川。
みんなが見ている目の前で、「悠さん」と呼ぶなんて…とは立腹はしていたものの、
時間が経ち、また食事をして血糖値も上がってくると、段々と気持ちが落ち着き、自分が何に拘っていたのかも曖昧になってくる。
いや、しかし。
一回向けてしまった矛先は、収めるのがなかなか難しいのである。
石川とて思うのだ。
衆目の中、どうして公私混同できるのか?!
自分たちの仲を知っている者を、これ以上増やしたいか?
委員会が知るところになれば、みすみす彼らが放っておくか?
石川は自分の降格などは気にしないが、間違いなく岩瀬の補佐官兼SPの職は解任。
否応なく岩瀬と離されるであろうことが、石川の心に影を落とした。
自分たちの恋は薄氷の上にある。
石川は常に細心の注意を払って、職場での毎日を送っているのに。
そーれーなーのーに!!岩瀬ときたら!!
「どうして、あいつはあんなに無神経でバカで呑気でいられるんだ?!」
自分は、こんなに気を遣っているというのに…。
石川は、自分の想いが空回りしているようで、それが少し不満だった。
自分と共に歩んでいきたいと、岩瀬にもそう思って行動して欲しいのに。
怒りはさておき、ふと隊長の顔に戻れば、前方のシーリングライトが色褪せていることに気が付いた。
寿命が尽きるのは、もう間もなくだろう。
「岩瀬!整備にあのライトの交換を依頼しろ!」
…しかし、石川の声だけがただぽつんと響くだけで、いつも傍らからすぐに返される耳に馴染んだ声はない。
「あれ、岩瀬?!」
しんとした空気につられて、後ろを振り向く。
だが、そこには、ただ真っ直ぐに延びる廊下があるだけ。
いつも一歩後ろを歩く岩瀬の姿が見えない。
どうしたのだろう?自分が先を行くことなど、いつものことだと言うのに、今日に限って後ろを必ず付いて歩く彼の姿がないなんて。
少しだけ困らせてやりたい…そういう気持ちも石川に中には確かにあった。
たとえそうであっても、彼なら必ず付いてきてくれるものと思い、ハイペースでの巡回を続けたというのが真相だった。
ところが、意に反してその姿が見えなかったとき、石川は戸惑った。
あるべきものが占める位置にないという違和感、喪失感。
後ろを振り向けば、そこには果てしない空白感。
石川は、はっとした。
自分が、何の憂いもなくひたすら前だけを見て歩けるのは、岩瀬が後ろに控えていたからなのだと。
それは、彼にとっては、もう当然のことになっていた。
当たり前にしようとしてお互いが歩み寄った結果だったのだ。
それに、今改めて気が付いたのである。
「あいつなら、ついて来れると思ったのに…。」
誰もいないから、ついうっかりぽつりと漏らした言葉。
それは、石川の独り言となり、壁に廊下に天井に吸い込まれて消えるはずだった。
「そうしようと思ったんですけど、人垣で遮られてしまったんですよ。」
しかし、その時、思わぬ場所から、心のどこかで待ち望んでいた声が降る。
石川は驚いて視線を前に戻した。
「だから、先回りさせてもらったんです!」と言いながら笑うのは、今し方不平不満を思い切りぶつけた岩瀬だった。
廊下の壁にもたれて、彼はずっと石川が来るのを待っていたらしい。
「どうして…俺の居場所が…分かったんだ?」
思わぬ岩瀬の反撃に、石川のろれつが回らない。
「だって、開発、整備と回って中央棟の後に外に出るなら、ここを通るのは時間の問題だと思って。」
「…俺の考えてることはお見通しなのか?」」
「全部判るわけじゃないですけど…でも、あなたの後ろに立って何年経つと思っているんです?」
『館内くまなく3周もさせられた、あの頃とは違うんですよ?!』
岩瀬の目には、石川との間に築いたものが、自信となって溢れていた。
「だったら、余計に遅い!!」
「ごめんなさい。隊長。でも、ちゃんと追いついたでしょ?隊長の後ろは俺の場所ですもん。」
いけしゃあしゃあと言い切るその顔を、石川は思い切り睨んでやったが、果たしてどこまで効果があったのやら。
自分を名前で呼ぶことを許す、唯一の人だから。
きっとその顔は赤く火照っているのだろう。無言できびすを返す彼を、苦笑いで見送る岩瀬がそこにいた。
…行くぞ。
…えぇ、石川さんは前をひたすらまっすぐに見つめて歩いて下さい。俺は必ず後ろに居ますから。
今度は、しっかりと二人の足音が絡み合う。
前を行くものと、後ろを行くものと。
ところが。
外の巡回に出ようとした瞬間、ふと石川の歩みが止まる。自然、岩瀬も止まる。
「どうしたんですか?石川さん??」
「いい…。前言撤回だ。岩瀬、お前が俺より先に行け!」
「は??」
前を歩くはずの石川が、急に岩瀬の影に逃げ込もうとするではないか。
何事かあったのか。
岩瀬は石川を庇いつつ、周囲に気を配るが、そんな危険な気配は一向に感じない。
「何でもないから!!でも、今は俺の前を歩いてくれ。頼むから!!」
さぁ、さっさと歩けと言わんばかりに石川が岩瀬の背中をぐいぐい押して、ずずいと前に進めようとする。
「いや、それは別に良いですけど。石川さん、そんなに押さなくても!危ないから!!」
しかし、石川、聞く耳を持たない。
一応は、隊長命令だ。岩瀬は戸惑いながらも、石川を従えて歩きはするが、
でも、やっぱり視界の中に石川の背中がないと、どうにも落ち着かない。
いつも通り前に進み出ようとしていたのに、どうして、いきなり自分の後についていくなどと言い出したのか?!
その時、岩瀬は地面に転がる、足下のソレに気が付いた。
春の暖かさに誘われたのか、それともダグが掘り返した植え込みから這い出てきたのか。
もぞもぞと動くのは、全長20センチはあろうかと思われるミミズ!
いきなり明るい世界に飛び出たソレは、どうして良いやら困って迷っているかのように、その巨体をうねうねとくねらせた。
「石川さん、もしかして…これ?!」
「う、煩い!!だから、さっさと前を向いて歩け!!俺を守るって言っただろう?!」
その顔は切羽詰まった表情で、何かを堪えるような、そしてどこか照れるような…
いや、実際、思わぬ弱点を知られて恥ずかしいとは思っていたのだろう。
そして、そんな彼の様子を見た岩瀬は、つい余計な一言を零してしまったのである。
「悠さん。かわいい!」と。
石川に殴られた岩瀬が、その場に転がり、ミミズと一緒にのたうち回っていたのを見たものは、
優しく吹き抜けた春風のみというのが、まだ救いだろうか。
…そして、話は振り出しに戻る。
何年経っても、その辺の岩瀬の経験値は、上昇カーブを見せる気配は全くない…。
(-キスへの序章-に続く)