「悠さん。聞いて良いですか?」
シャワーの後、濡れた髪を拭きながら、石川に話し掛けたのは、補佐官であり同室者、そして恋人の岩瀬だ。
夜も更け、明日の勤務に備えてそろそろ休もうかという時刻。
石川も岩瀬もパジャマ代わりのTシャツとスウェットという楽な服に着替え、ダグの遊び相手を務めたり、
テレビを見たり本を読むなど、無線に縛られないゆったりと過ぎる時間を楽しんでいた。
「なんだ、基寿?改まって…。」
「いえ、別に大したことじゃないんですけど。」
岩瀬は苦笑いしながら、聞いて良いものやらどうやら迷いながら続ける。
「悠さんは、どうしてあんなに逃げ回ったんですか。たかがミミズじゃないですか。」
…そう。それはその日の昼間の出来事だった。
外に巡回に出た石川と岩瀬。ところが、いつも岩瀬の前を率先して歩く石川の歩調が急に鈍った。
いや、鈍るどころか、岩瀬の後に隠れてこそこそ逃げ回る。
何事か起こったのかと不審に思った岩瀬が気付いたもの…それは、地面を転がってはいずり回る大きなミミズの姿だった。
結局石川は、ミミズが目に入らない位置に来るまで、岩瀬の後をついて回った。
さすがに泣き言は言わなかったが、全身で表現された『俺はミミズが大嫌い!』
普段はお目に掛かることのない姿を存分に堪能出来た岩瀬は、石川への愛しさ二倍増しで、
ミミズにすらも感謝を果たすことになるのだが、後に疑問も残った。
たった一匹のソレは、そんなに怖いものだろうか?
確かにグロテスクではあるが、人間に害をなすことは皆無なのだ。
しかも、石川は線が細いとはいえ、国会警備隊8代目隊長。
爆風が吹き荒れようが怯むことなく現場へと赴き、テロリストに正面から立ち向かい、縦横無尽になぎ倒す猛者である。
みのけがよだつような修羅場を、臆することなく何度もくぐり抜けているというのに。
そんな彼が、たった一つ、岩瀬の前で背中を見せた。逃げた相手は………。
岩瀬が興味を持ち、何気なく尋ねたのは、不思議なことではないだろう。
しかし、その質問は、石川の気に障ったようである。
それまでの穏やかな表情は急に険しくなり、口元が苦々しげに歪められる。
『思い出すのも嫌!』とばかりに閉じられた瞼。思い切り握られた拳。
そしてため息と共に吐き出された一言には、妙に実感がこもっていた。
「俺には、たかがミミズじゃない!されどミミズなんだ!!」
『…あの記憶は…そんな生やさしいものじゃないんだ!!』
きっと、今、石川の頭の中には、何か壮絶な思い出がめまぐるしくフラッシュバックしているに違いない。
「絶対に、ぜーーーったいに、笑うんじゃないぞ!」
の可愛い一言に、つい手が出た岩瀬を乱暴にあしらいながら、石川はぽつりぽつりと昔話を始めた。
***
それは、石川が小学校に入学した頃に遡る。
今でこそ何事にも冷静沈着な石川悠にも、やんちゃな盛りはあった。
学校の帰りに道草を食い、あちこちで無邪気な悪戯を繰り返し、両親にこっぴどく叱られたこともあったのだ。
だが、傍らに友達もいれば、いくら親に注意されようとも誘惑には勝てやしない。
なぜなら、春には、彼らにとっては魅力的なものが増えるからだ。
道端にひっそりと芽吹く雑草も、雨上がりにひょっこり顔を覗かせるカエルも、
そっと大空を舞う日を夢見る蝶の幼虫も、幼い彼らにとってかかれば、単なるおもちゃである。
水と土があれば、時間を忘れて泥遊びに熱中し、いつしか全身真っ黒け。
帰宅するなり母親に、浴室直行を命じられることも日常茶飯事だったのだ。
その日、春うららかな陽射しの降り注ぐ中、少年・悠は、いつものように興味の向くまま見て歩き、
学校から自宅への帰路を大きく蛇行し外れていった。
毎度の遊び場である川原に出向いた悠と友人達。
子供達が水辺に出ればどうなるか?!
すぐさま、川に向かって、手近に拾い集めたものを投げ入れ出すのがまず常だ。
誰が一番遠くまで石を投げるか。誰が一番水しぶきを上げるか。
他愛のない競争がすぐに始まった。
小石から始まり、泥の固まり、枯れ枝や、ときには得体の知れないプラスチックの破片など、
地面に落ちているありとあらゆるものを拾っては川面に投げては笑い、放ってはその距離を自慢しあって楽しんだ。
と、その時。
「あ、ごめん!悠ちゃん」
後ろからの甲高い叫び声と共に、悠の顔にぶつかったものがあった。
川に投げ入れようとして、コントロールが狂い、彼に見事にヒットしたらしい。
”びたん!” 悠は、我ながら良い音がしたと思った。
しかし、一体何が当たったのやら。
「うげ!」
口の中に砂が入ったのか、じゃりじゃりとした受け入れがたい感覚が広がる。
いや、それよりも、粘つく湿った感触が気持ち悪かった。
しかも、ねちゃねちゃと顔の上で動いているのだ。
『なんだ?これ??』
何気なく手でつまみ上げてみる。顔の前の、焦点の合う位置にかざす。
うねうねうね。嫌がるように身をくねらせるそれは…。
そう、特別長く、そして大きくうねるミミズだった!
悠の目が点になり、そして頭の中が真っ白になる。全ての考えが放棄され、その代わりに現れたものは反射神経。
「う、わぁぁぁぁ!!!!!」
さすがの彼も、そして周りの友達も、みんなが悲鳴を上げた!
そして、悠が無意識に掴んだソレを力一杯遠くに放り捨てると、周囲の者は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
悠は、小さい頃から柔道を始めたおかげで、年の頃にしては、やや大人びた表情を時折見せる子供であった。
しかし、このときばかりは、彼は実に子供らしい反応を返したものだ。
驚いた体は自ずと反応し、足が手が、同時に跳ねた。
数歩下がってバランスを崩した彼が倒れた先は…お世辞にも水温むとはとても言えない川の流れの真っ只中だった。
その時、やたらと跳ねた水しぶきは、陽射しを浴びてきらきら反射し、青い空に眩しく光った。
***
「ほら、これ!!その時に石で切った跡だ!!」
いつの間にか、すっぽりと岩瀬の腕の中に収まっていた石川が、彼の目の前に己のひじを突きつけ、
今ではほとんど判らなくなったわずかに掠った傷跡を指さして熱弁を振るう。
あの時は、ミミズを顔面に食らうわ、ひじを切って血まみれになるわ、全身びしょぬれになるわ、
友達は皆俺を見捨てて帰ってしまうわ…悲惨だったんだ!と、彼はまだかなり根に持っているようである。
「あれから俺は、ミミズだけでなく、あの類が大嫌いになったんだ!」
まさか、石川の口からそんな話が飛び出すなんて。
今では、凶悪なテロ犯が一歩退くような威厳漂う隊長なのだ。彼らに手ずから制裁を下すほどである。
だが、そんな彼にもやっぱり弱点があったのだ。
こんなに凛々しくて綺麗で格好良い人なのに、トラウマになるくらいの強烈な珍体験もあったのだ!
だから、つい岩瀬は呟いて、腕の中の石川を思いっきり抱きしめてしまった。
「は、悠さん!かわいい…!!」
「こ、こら、岩瀬!!離せってば!!きつい、苦しい、鬱陶しい!」
石川が憤慨し思い切り藻掻くが、岩瀬の腕の力はそうそう簡単に緩むことはない。
しかし、べったりと懐かれた彼が不愉快に思ったのは、どうもその大型犬の緩んだ顔にあるらしかった。
「…お前、俺が散々笑うなと言っておいたのに、笑ってる!」
「だって、だって!悠さん、とってもかわいいんですもん!!」
もう、岩瀬、にやけっぱなしである。笑いがこみ上げ止まらない。
岩瀬にとっては、今の石川からは想像もできない、そんなエピソードに触れる度、
また一つ彼を深く知ったような温かい気持ちになる。
取り立てて話すこともないそんな昔話を語ってもらえる幸せに、岩瀬はしみじみと浸っていた。
それは恋人だけに向けられた特権…岩瀬は全身で喜びを表し、石川をこれでもかと抱きしめた。
ところが、相反して石川の機嫌はますます急降下していた。
爆笑厳禁を謳ったにも関わらず、それは、岩瀬の何かを大いに刺激してしまったようである。
誰が恥ずかしい過去を進んで口にする者がいるというのか。
岩瀬にだから、断りを入れた上、敢えて話したというのに、大笑いされたばかりか、
盛んにかわいいとまで連発されれば、石川の高いプライドはいたく傷ついてしまうのだ。
「お前!笑いすぎだ!いいよ、もう、お前なんかに二度と話しはしないから!」
「え!?は、悠さん!!」
岩瀬は慌てた。さすがに調子に乗りすぎたと思った。だが、時すでに遅し。
臍を曲げた恋人の機嫌は相当悪いようだ。今では目線すら合わせてくれず、当然口はへの字に歪んでいる。
まだ腕の中に収まっているから、心底怒っていないのは確かなのだが、
それでもなお笑えば鉄拳がお見舞いされることは明白である。
いや、それどころか。
今のうちに関係修復をしておかないと、一体彼はこれから先、幾晩お預けを食らってしまうだろう。
岩瀬の煩悩は、要らぬ想像まで瞬時に果たしてしまっていた。
「悠さ〜ん、ごめんなさい!俺が調子に乗りすぎました。だから機嫌直して下さい!」
「ふん、お前なんか知らない!思う存分笑い飛ばしやがって!!」
「はるかさぁぁん」
目尻を下げて謝る岩瀬。
あの手この手で、何とか石川を宥めすかそうと必死である。
だが、石川がただ拗ねているのは明白で、それはいつもの単なるじゃれ合い。
ダグなどは、もう勝手にやっていろと言わんばかりに、大あくびをしてベッドの端で丸くなる。
それを合図に、石川は何かモノ言いたげな目線を岩瀬に投げかけた。
「………どうしたんです、悠さん?」
「いいよ、許してやる。だけど、その代わりに。」
「………?」
その代わりに、キスしろよ…。
微笑んで妖しくつぶやく石川に、岩瀬が拒否するわけもなく…。
繰り返し交わされる熱い想い。
もはや心の底で判ってはいるが、それでも足りないときには、眼で、指で、唇で、肌の温もりで伝えて欲しいのだ。
『本当の俺を知るのは、お前だけで良い…』
『そんなあなたを、俺はずっと守り続けます…』