さらさらと暖かな風に誘われ、桜の花が綻び始める季節。
去年までは全く感じなかったのだが、石川は時折何事かを思い遠くを見据えるような素振りを見せるようになった。
まるで何かに耐えているかのように、少し寂しげに窓から見える桜を眺めるのだ。
―嬉しいような、切ないような―
何とも形容しがたい表情を浮かべる石川を見る度、岩瀬は胸が締め付けられるような思いが走る。
桜の花が嫌いでしたかと問うと、そんな事はない、好きだよと返って来る。
けれどそこには心底嬉しそうな笑顔はなく、悲しみを耐えているような切なくて儚い笑みが浮かんでいるのだ。
「隊長、どうかしましたか?」
デスクワークをこなしていた筈の手が止まった気配を感じ、補佐官兼SPたる岩瀬がそんな問いを投げ掛けてきた。
「・・・・いや、何でもないよ」
「そうですか?新人が入って大変ですからね、ちょっと疲れたんじゃないですか?」
本当は石川の視線の先にある物に気付いているのだが、岩瀬はそれに気付かぬ振りをし、
まるで此処から抜け出す言い訳をするかのように、少し気分転換でもしましょうと促してきた。
「そうだな・・・少し休憩するか」
本当は疲れてなどいないのだが、石川を気遣う岩瀬の気持ちに気付き、気分転換にと休憩室へと足を向けるのであった。
どうせなら館内を巡るのも良いだろうと、一旦外へ出ると、窓越しに見えていた桜の花が目の前に飛び込んでくる。
そんな桜の仄かに漂う甘い薫りを吸い込みながら、石川はここ最近見せるようになった儚げな笑みを浮かべている。
「石川さん、本当にどうしたんですか?桜って嫌いでした?」
岩瀬の記憶にある石川は、桜を憂いる要素が見当たらない。
そればかりか、嬉しそうにその顔を綻ばせながら眺めていた。
それなのに何故そんな表情を見せているのか、石川は何でもないと云うけれど、
何よりも石川の事を考えている岩瀬は気になって仕方がないのである。
「いや、好きだよ」
「だったら・・・」
「今が幸せだからかな、一寸昔を思い出してたんだ」
岩瀬の疑問を先取りする形でそう応える石川は、やはりあの少し悲しげな切なくて儚い笑みを浮かべてくる。
何時もはもっと幸せそうに、溢れんばかりの笑顔を見せるだけに、岩瀬はどうした物かと戸惑ってしまう。
それを判っているのか、誰もいない休憩室に入ると、石川はゆっくりと話し始めるのであった。
「桜の時期って、新しい年度が始まるだろ?
まるでそれを祝福するかのように花を咲かす。けれど、その寿命は決して長くないだろ」
日本人は全般的に桜が好きである。
桜は徐々に蕾を膨らませて行き、満開の花を咲かせた後、一週間一寸ぐらいでその花びらを散らせて行くのだ。
「ええ、そうですね」
石川が何を云いたいのか今ひとつ掴めない岩瀬は、ただゆっくりと相づちを打つ。
そんな岩瀬を見るでもなく、石川はゆっくりと言葉を紡いで行く。
「桜にはいろんな種類があるから、花自体は結構長く楽しめるけど、どれもこれも寿命は同じようなもので、
本格的な春を迎える風に誘われるようにその花びらを散らして行く。その生き様を見ていると、両親の事を思い出すんだ」
「ご両親を?」
「ああ、母さんは桜が好きで、桜が咲き始めると良く公園へ連れて行ってくれた。
そして優しく笑いながら、人々を魅了した後潔く散っていく生き様が好きだと話していた。
そして俺にもそんな人生を送りなさいってな・・・」
先人達の中には、桜の花を人生に例える人が多くいる。華々しく功績を残し、後腐れなく散っていくのが理想だと。
幼かった石川がそんな思いを抱きながら見ていたとはとても思えず、岩瀬は次に語られる言葉を待つ。
「父さんがテロに殺されてDGを目指したってのは話したよな?」
「はい、石川さんと同じような思いをする人が居なくなるようにしたいって」
「今もその気持ちは変わらない。相変わらずテロは減らないけど、ここで起こるテロでの犠牲者はここ数年出ていない」
「みんな石川さんと同じ気持ちがあるんですよ。
テロに倒れたら誰が悲しむかって判っていますから、日頃から鍛錬を怠らず、例え危険があったとしても、
幾ら怪我を負ったとしても、生きる意欲が強いんだと思います。決してテロに屈してはいけないってね」
それもこれも全て、頂点に立つ石川が手本を示し、優れているからだと岩瀬は云う。
「俺はそんなんじゃないよ。ただ周りが優秀なだけだ。それに岩瀬が守ってくれているから、俺は無事でいられるんだしな」
「石川さんを守る事が俺の天命だと思ってますし、誇りでもありますから、何が何でも守りますよv」
「その分お前に怪我させる事になる」
やはりそれは辛いんだと石川は云う。
何時まで経っても慣れる事が出来ない事実。かと云って、離れる事が出来るのかと云えば、最早それも出来なくなっている。
「俺はどんな事があったって、決して石川さんを悲しませるような事は絶対にしません。
石川さんの傍を離れる事はありませんから」
「うん。信じてる」
普通ならここで満面の笑みを返してくれるのだが、相変わらず儚げな笑みを返してくるばかりである。
此処が誰の邪魔も入らない自室であったなら、間違いなく抱きしめているだろう。
けれど如何せん今は勤務中であり、誰が入ってくるか判らない休憩室なのだ。
岩瀬は沸き起こる衝動を辛うじて抑え、そんな石川を優しく包む込むような笑顔を浮かべて見せる。
「俺を信じてくれているのなら、何時もの笑顔を見せて下さい。石川さんが沈んでいると隊全体も沈んじゃうんですよ?」
「ああ、判っているよ・・・」
良しも悪しきも、石川の状態により隊の雰囲気は浮き沈みするのだ。
岩瀬の言葉に小さく頷いた後一旦視線を外し、石川はこの場所からでも良く見える桜の花へとその視線を向けていく。
その仕草につられるように、岩瀬もまた桜へと視線を向けるのであった。
「父さんも同じ言葉を云っていたんだよ」
「えっ?」
「絶対に大丈夫だってな・・・」
しばらく続いた沈黙の後に続いた言葉の意味を把握しきれず、思わず疑問を口にする岩瀬に対し、石川は一言そう呟いた。
何故今になってこんなに胸苦しい思いに駆られるのか、石川自身全く判らない。
けれど、今年に限って何故か思い出されて仕方がないのだと―――。
++ ++ ++ ++
「そうか、それでここしばらく様子が可笑しかったと云う訳か・・・」
岩瀬の話を聞きそう応えて来たのは、石川の親友で同期でもある、石川の一番の理解者たる西脇であった。
「何時ものように笑って欲しいって思うんですけど、何をしても寂しげな笑顔しか見せてくれなくて・・・
石川さん自身も、嬉しいはずなのに切なくなるって云うんです」
もうどうして良いか判らないと、深い眠りに就いた石川を一人部屋に残し、岩瀬は西脇にそんな言葉を投げ掛けたのである。
「珍しく弱気だな」
「にもなりますって」
悔しいけれど限界だと岩瀬は云う。
この時期にテロが相次いだ事がその原因の一つになっているのだとは思う。
新人も入り次から次へと問題が発生しては忙しく走り回る日々。
その時は忘れているようであっても、ふと気を抜く事が出来る時間に沈んでしまうのだ。
「お前が傍にいるから見せる姿だと思うがな」
「それも判ってます。どこにも行く筈がないのに、まるで俺が居るか確かめてでもいるかのように振り向いてくれますから」
「あっ、そ。なら問題ないだろ?」
「ありますよ。もうすぐ石川さんの誕生日だって云うのに、当の本人が沈んでいたら周りも沈んじゃうじゃないですか」
今年もご多分に漏れず隊員達は石川の誕生日を祝う計画を立てている。
そしてこれもまた当たり前のように当人は自分の誕生日を忘れているのだ。
「今のままだと早々にパーティを引き上げてしまう可能性があるな」
いっそ何かと口実をつけて抜け出すだろうと西脇は云う。
「ええ、それに感極まって涙を流すかもしれないですからね」
それだけは絶対にして欲しくないと岩瀬は云う。
まあ岩瀬が心配する事もなく、石川は感情をコントロールするだろう西脇は思う。
石川の親友と云う立場に立った時、それなりに石川の性格や行動パターンを把握しているのだ。
「まあその心配はないとしても、素直に喜べる深層心理じゃないって事だな」
そんな言葉を発した後、西脇は何事か考えるかのように黙り込み、岩瀬もただじっと夜空に光る星を眺めていた。
「岩瀬、石川と一緒にその日と翌日休みを取れ」
「えっ?休めって云われても・・・仕事は詰まってますし、みんなが楽しみにしているパーティはどうするんです?」
「それは俺が何とかするから大丈夫だ。それに副隊長だっているし隊の心配もない」
「そうは云いますけど、その日副隊長はお休みなんですよ?休みを返上してもらえって云うんですか?」
もしそんな事を言い出そうものなら、石川は黙っていないだろう。
只でさえ仕事に忙殺され、休みを取ろうともしないのだ。
「そんな事判っている。副隊長と休みを交代してもらうんだよ。
このところろくに休みを取っていないだろ?一日は正規の休みとして堂々と取れるしな」
「西脇さんが云いたい事は判りますけど、副隊長が納得しないでしょ?」
理由もなく休みを交代してくれとは流石に云いにくい。
そんな戸惑いを見せる岩瀬に、西脇は意味ありげな笑顔を見せてくる。
「近々ロイド兄弟が来日するらしい。その前倒しで交代してもらったと云えば済む」
「西脇さん・・・いったいどこからそんな情報手に入れるんですか?」
「企業秘密だ」
「企業秘密って・・・」
何とも西脇らしいいらえに思わず脱力する岩瀬であった。
「お膳立てはこっちで整えるから、お前は石川の憂いを取り除いてやれよ」
「出来ればそうしたいですよ」
「お前が居れば解決するさ」
それが出来ないから相談を持ちかけたのにと、如何にも不満げな表情を見せてくる岩瀬に、
ただ休日を満喫すれば良いと西脇は云う。
何となくかもしれないが、西脇には石川の憂いの訳が判っているように岩瀬の目には映るのだ。
それを見る度に、やはり西脇と石川の間にある絆が深いのだと痛感する岩瀬であった。
そして石川の誕生日を明日に控えたその日。
急な話で申し訳ないけれどと、笹井の方から休日を交換して欲しいと云う話がもたらされたのであった。
++ ++ ++ ++
「思わぬところで休みになったな」
「ええ、折角ですから思いっきり楽しみましょう!何がしたいですか?」
「そうは云うけど、急だったしな・・・」
「それなら俺に任せて貰えますか?」
「ああ、それは構わないけれど・・・」
常に行動を共にしている岩瀬は、石川が驚くぐらい幾つもの計画を立てている。
今回も急に休みが取れたと云うのに、幾つかのプランが頭に出来上がっているようであった。
「折角ですから外泊しませんか?」
「外泊するのか?」
「駄目ですか?」
「駄目って訳じゃないけど・・・」
まるでしかられた犬がご主人様を見るように眺めてくる姿を見ては、嫌とは云えなくなってしまう。
「じゃあ泊まりましょうね。予約は俺がしますから、悠さんは明日に備えてゆっくり休んで下さい」
岩瀬はそう云うと、実に楽しそうに計画を実行に移す準備を始めている。
そうして思わぬ休日を利用して出かける事になった二人を、
西脇は『楽しんできて下さいね』と笑顔で送り出してくれたのであった。
日頃の喧噪を忘れるような一時を過ごした後、
岩瀬が石川を連れてきたのは、見事な桜並木を高台から見下ろすことが出来る場所にあるホテルであった。
「今は遅咲きの桜がメインですけど、もう少し早いとソメイヨシノもまだ咲いていて見応えがあるんですけどね」
部屋から見える桜を並んで眺めながら、岩瀬は何時も以上に優しい笑みを浮かべている。
「いや、今でも十分見事だよ・・・」
「気に入って貰えました?」
「ああ、凄く綺麗だ・・・」
そう応える石川は、何とも表現しがたい表情を見せている。
「このところ寂しげに桜を見ている事は知ってます。
でも、例え悲しい思い出であったとしても、悠さんには悠さんらしい笑顔を見せて欲しいんです」
愁いを含んだ含んだ笑顔も素敵ですけど、誰もが惹き付けられずにはいられない満面の笑顔が好きなんですと岩瀬は云う。
「基寿・・・」
「それに今日は悠さんの誕生日なんですから、笑っていて欲しいじゃないですか」
「えっ、誕生日って・・・」
「やっぱり忘れてました?」
岩瀬は呆れるでもなく、悠さんらしいですねと、呆然としている石川を抱きし寄せながら言葉を紡いで行く。
「本当はみんなでお祝いする筈だったんです。
でも、何時もと一寸違う悠さんの笑顔を見せたくなかったから、俺が独占させてもらう事にしたんですよ」
「それって・・・」
「大丈夫。西脇さんが提案してくれましたから♪」
石川の誕生日を祝う事は何時しか隊の恒例となっている。
自分では忘れてしまっているのだが、その事を嬉しく思わない事はない。
それにみんなも良い口実だとばかりに楽しい一時を過ごすのだ。
それなのに岩瀬が一人独占したとなると、大変な事になるのではと思ったのだが
一瞬浮かんだ心配は岩瀬の一言によって否定された。
「悠さんの笑顔はみんなを明るくするんです。
だから、何時もみんなに見せてくれる屈託のない笑顔を取り戻すのも俺の仕事だって云ってました」
「そうか・・・ありがとう基寿。心配掛けてたんだな」
そう云って微笑む石川は、一瞬にして岩瀬の心を捉えたあの笑顔であった。
「良かった。何時もの悠さんに戻ってくれて。これからもずっとその笑顔を見せて下さいねv」
「うん、ありがとう・・・」
自分でも判らない悲しみに囚われていた石川の心を解きほぐしてくれる岩瀬。
その存在が改めて大きなものであると実感する石川であった。
その夜、見えない疲れが溜まっていた石川は、
ライトアップされた淡く輝く桜と心地良く優しい岩瀬の腕に抱かれながら安らかな眠りに就いたのであった。
明日からまた何時もの笑顔が見せられるように―――